理解ができた

理解ができたでは、もし相手のすべてを理解できたならば、人は絶対に他人を愛さずにはいられないだろう。みんな、必死に生きているのだ。表に現れる形というのは一面にすぎないのだ。相手の心の隅々まで知れば、人を理解できる。人の内面を知るということは、許せないものを許すということであり、理解できるということが人を愛するということなのだ。なぜならば、自分自身は愛せるのだから。しかも、一人の人間が生きるということは、どれほど多くの人の思いが介在しているのだろう。父、母、兄弟、友人・・・・・。一人の人間を多くの人が愛している。本当はすべての人間は愛される存在であって、それでも、僕がその人を愛せないというのなら、僕自身が理解という点において欠けたる部分があるのではないか。これが2つめの結論。

そこで、まてよ、となる。理解できないから愛せて、理解できないなら愛せないというのなら、愛せるか、愛せないかの責任管轄は自分になる。いまは、理解できない相手でも、理解ができたら愛せるのなら、理解できないという現実はひとまず置いて、無前提で愛することができるのではないか。自分が知らないという部分に、愛せない理由を帰着させることによって、無条件にすべての人を愛することができるようになるはずだ。寛容な人間の背景には、そういう理解があるのではないか。これが3つめの結論。

この三つの結論に達した時、僕は子供ながらに全世界の人を愛することができるような可能性を感じて、胸から熱いものがこみ上げてきてしまった。それは、初めて経験するフィロソフィア(愛智・哲学)への感動と言ってもいいのかもしれない。もちろん、このような言葉で理論構築したわけはなく、もっと拙い理屈をこねくり回した結論ではあるが、考えた中身はそういうことだ。「すべての人は愛することができる」。そう思うと、それだけで僕は幸福を感じ、恍惚とした。僕は、初めて、考えるということにおいて幸福だった。生きるということは素晴らしいことだと思った。

しかし、現実はそれほど甘くはなかった。それから間もなくして、サナエが僕に歩み寄って来て言った。
「わかったわよ。理由が。私とあなたが同じ中学で、仲よくしているのをみて嫉妬したんだよ。あいつ。うふふ。私も困っちゃうのよね。二人の男性の火花に挟まれて」
僕は愕然とした。サナエは色気も可愛げも愛想も何もない女性なのだ。別に何の下心も持つわけがないのに、それを誤解して不快な思いをさせたツトムもツトムだが、それを三角関係のもつれのように錯覚し、得心しているサナエもサナエだ。
「おい、サナエ、いい加減にしろよ。俺は、怒ってんだよ!。おまえもツトムも俺は大っきらいだ!」
全人類を愛せるかもしれないと信じた少年の儚い夢は一瞬にして破れ、一人の高校生の、ノー天気で無邪気な、泣き笑い、そしてつかみ合いの喧嘩もする、どこにでもある日常が再び舞い戻ってきたのであった。
その後、僕はツトムのやつがそんなに嫌ではなくなった。ただし、それが愛ゆえなのか、彼の嫉妬に対する優越感がなせる技なのかはわからない。もし優越感がなせる技だとしたら、僕自身、案外、偽善の仮面を冠った嫌な奴なのかもしれない。


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